私は弟が演奏するところを見たことがある。
家に来るたびに、私はわが家のスタインウェイを弾いたものだ。
私がどんな姿勢で鍵盤に向かうかは知っていた。
あの人を手伝ってあげる気はないの?と久美子はスコットに向かって言った。
ポールにも言ったのだがこちらは聞く耳を持たず、女の子相手におしゃべりの最中。
弟は次の曲へと音を途切れさせることなく転調でつなぎ、とても美しいフジワーク「ユー・ハヴ・チェンジド」に移った。
ないね、とスコットが言った。
休み時間は休み時間だから。
メンバーは各自、ビールと小さなグラスを前にしていた。
ビルはバーボン。
スコットはウィスキー。
ポールはコカコーラ。
ビルは面白くもないという顔をしていた。
弟の演奏を聴いているうちにたまらなくなってきたのだ。
あなたが演奏してるのかと思ったわ、と久美子が言った。
休憩時間に客がピアノを弾き出したというのは、彼女にとっては痛快事らしかった。
楽しいじゃないの、でもねえ。
あの人、上手すぎる、と久美子は思った。
なんだか変。
これは何かあるわ。
それに久美子は、弟がこんなにも見事に弾いてみせているあのフジワークの心地よいリズムが大好きだった。
彼女の昔の持ち歌だった。
もう長いあいだ歌ったことはなかった。
それじゃ私が行くわ、と彼女はビルとスコットに言った。
あの人を手伝いに。
歌いたくなってきたし。
そう言ってスコットのグラスの酒を一口すすった。
もらうわよ。
相変わらず、世界にたった一人、鍵盤と鼻を突き合わせていた弟には彼女が近づいてくるのが目に入らなかった。
彼女はマイクスタンドからマイクをはずした。
傍らでのそうした動きに気づいて、ええ、わかってますよと弟は言った。
もうやめますから、と言いながら彼女を見もせず、演奏をやめもせず、湧き出るようなフレーズの流れをそのままほとばしらせ続けた。
久美子は私のほうにかがみこんだ。
マイクを唇に寄せ、メロディーをぱっとつかまえると、私のすぐそばで歌い出した。
「あなたは変わっていないわ」。
弟は面を上げ、久美子を見、そしてピアノを弾きながら応じた。
「あなただって」。
弟にとっては一度も会ったことのない女だった。
それから何年ものちのこと。
私は久美子と夫婦になっていた。
弟は私に、その晩自分にどうして、言うなれば久美子をすぐに見分けることができたのか、その理由がひょんなことからわかった顛末を話してくれた。
そしてとりわけ、どうしてたちまち彼女が大好きになってしまったのかの理由を。
たいがいの情熱恋愛はそんな風に説明がつくものだ。
何年ものちのこと、いまの話とは全然関係のない、面倒な相続問題の資料を探しているときに、弟は一枚の写真、まだ若い娘だったころの母の、忘れられたポートレート写真に出くわしたのだが、それは久美子その人だった。
急いで言っておくが、私はシュザンヌを捨てて久美子と結婚したわけではない。
私を自由の身にするような状況が生じたのである。
久美子はヴィブラートをかけずに歌った。
発声法はニュートラルで、まるでウエストコースト派のサキソフォン奏者のよう。
弟は声だけを相手に、声のためにプレイする楽しさを知った。
アルトの声、ぶっきらぼうな感じさえする声。
飾って見せようなどとは考えもしないその歌いっぷりが感動的でさえある。
うん、これは気に入った、と弟は思った。
弟はできるだけ控え目な演奏を心がけた。
声に伴奏をつけるのはとてもむずかしい。
先回りしたり、後からついていったり。
呼びかけに応えたり、こちらから問いかけて力の入る箇所を先取りしたり。
そんな対話に弟は没頭した。
没頭しながら、彼女を見ないわけにはいかなかった。
彼女を見れば、その顔がどうしても目に入った。
そして結局のところ、心打たれないわけにはいかなかったのだが、それはゆっくりと時間をかけたうえでの驚きだった。
必要なだけ時間をかけたからこそはっきりとわかったわけだ。