忘れてはならないが、そのいっさいをクラブの客たちが見守っている。
いまでは客たちはみんな、いったいどうしたんだと不思議がり、いぶかしんでいたーあのおかしな男、何者なんだ、酔っぱらってるのか?身震いがどうにか収まってきたので、弟はまず最初に鍵盤を二つ三つ弾いてみたが、出てきた音は望んだよりもずいぶん喉の詰まったような音、思いがけずに出てしまったような音だった。
こういうことだ。
緊張、恐怖、身震いのせいでミュージシャンはピンととんがり、逆上し、とぎすまされ、鋭くなり、いらだち、興奮し、加速するのである。
弟はついさっき若い同業者がライヴの最初に演奏したあの美しいフジワークの「レター・トゥ・エヴァン」を自分でも弾いてみたかった。
同じ音色、普通のテンポで。
鍵盤を端から端まで支配下に収めるなど不可能、収拾がつかなくなるのではないかという恐怖。
私は限られた数の鍵盤、真ん中あたりに位置する黒鍵と白鍵しか用いなかった。
両手をほとんど重ね合わせるようにして、そこが安全圏だとでもいうかのようにじっとしていた。
試してみた。
弾き出した。
客はみんな耳を澄ませていた。
イントロを弾き、はるか私方からテーマを呼び寄せ、メロディアスなタッチを加えて少しずつハーモニーをかもし出し、沈黙の空間の中に一音一音和音を組み上げ、メロディーラインを浮き彫りにしていった。
リズムもまた、しだいにはっきりし始めた。
スウィングやクラブミュージックを演奏してやろうという気持ちがたちまちのうちに私をとらえた。
全員が耳を澄ませていた。
おいお前、聞こえるかあれ?若いベーシストのスコットがそう言った。
言った相手はビル、若いピアニストだ。
若いドラマーのポールは二人に背中を向けていた。
女の子とおしゃべりしていたのだ。
三人のうちいちばん男前じゃない男。
だが女の子にはよくもてた。
そんなものだ。
三人ともアメリカ人。
店のオーナーが呼び寄せたのだ。
オーナーはデビー・パーカーなる女。
彼女もアメリカ人。
フランスに定住した、文化的難民とかいうやつ。
彼女もまた、私の友だちになった。
彼女のことを手短にデビーと呼ぼう。
おいお前、聞こえるかあれ?とスコット。
ビルは答えない。
スコットはなおも食い下がる。
あの男、とピアノを弾いている弟についてそう言った。
いまやみんなが弟の演奏を聴いていた、女の子をひっかけているポールは別として。
あの男、とスコットが言った。
真似のうまいことといったらまったく驚くべきもんだな。
ビルは聴いていた。
スコットに答えた。
とりわけすごいのは、あの男が大友の弾き方の、俺でさえどうしても真似できなかったところを見事にやってのけていることだ。
それは息のしかたとか、体のなかのリズムに関係したものなんだけれど。
そう言ってビルはなおひとこと付け加えようとした。
ひょっとして、本人なんじゃないカとスコットが言った。
いいや、とビルが言った。
もし本人だったらわかるはずさ。
それにこんなところに何の用があるっていうんだ?弟がずいぶん変わってしまったことは、言っておかなければならない。