安定した暮らしのおかげで太っていた。
髪は白くなっていた。
残っている部分はということだが。
ほかの髪は抜け落ちていたし、昔はかけていなかった眼鏡をかけていた。
アメリカのクラブに二度三度と招かれた、かつての若き革新派ピアニストを思わせるところはあまりなかったのだ。
テーマを充分に提示し終えると、弟は即興に移った―世界にたった一人、鍵盤と鼻を突き合わせて。
両手の震えは止まっていた。
少しずつ全鍵盤にカを及ぼし始めた私のスタイルには、それがいいことなのか悪いことなのか私は知らないけれども、昔と比べて慎ましさと、明晰さが加わっていた。
オーナーが来たぞ、とビルが言った。
ここで恋の神が介入する。
安心してはいられない。
弟はヴォーカルの伴奏をした経験はこれまでなかった。
でもすぐにそれが気に入ったよ、とあとになって私に話してくれた。
相手が久美子だったからというだけではない。
そうではなくて、ピアノとヴォーカルというジャンルが気に入ったのだ。
昔クラブミュージックを歌っていたことがあった、久美子には。
彼女は弟を知らなかった。
それともむしろ、多くの人がそうであるように、ある晩たまたま出会って演奏を聞いたことがある、そんなところか。
久美子は一度しか弟を見たことがなかった。
まだ大学に通って音楽を勉強するほんの小娘だったころの話だ。
夏休みにはヨーロッパじゅうを旅して回った。
ある晩コペンハーゲンのクラブで、彼女は弟を見、聴いたのだった。
弟とともに二、三時間、たとえそのとき二人の視線が交わったとしても、それだけでは覚えていられるものではないし、スタイル、音の響き、タッチ、フレージング、それでもなお記憶にとどめるには足りない。
いや違う、それで充分とも思える。
いや、本当を言えば、彼女には弟だとはわからなかった。
とはいっても、と久美子は私に言った。
あとになって久美子が話してくれたところでは、彼女はシルエットに反応したのだという。
鍵盤の上にかがみこむその姿勢の面影。
グレン・グールドみたいな、と彼女は私に言った。
何を言いたいか、あなたに通じるといいんだけど。
私にはわかった。