もう鍵盤のことなど忘れていた。
ただ彼女のために弾いた。
歌詞が足りなくなって、彼女はアドリブで歌った。
私のほうも彼女のためにテーマをアドリブで変奏し、二人は一種の喜びにつつまれて演奏を終わった。
時刻は11時15分。
列車はパリに向かってひた走る。
弟は暑さでのどが渇いていた。
久美子がグラスを二つ持って戻ってきた。
どちらかをどうぞ、と彼女が言った。
久美子は弟に、右手に持っていたグラスを差し出した。
あなた、コピーが天才的にお上手なの、それとも大友その人なのかしら。
あなた、弟・大友なの?昔の話ですよ、と弟は答えた。
コペンハーゲンでクラブミュージックを演奏していらっしゃいましたね、と久美子。
いろいろなところでやりました、と弟。
ニューヨークでも、と久美子。
ええ、ニューヨークでも、と弟。
それにほかのところでも。
本当にいろいろなところで。
そして今晩はここで、と久美子。
いや、もう終わったんですよ、と弟。
今晩はただのご愛嬌で。
今晩ここで演奏したのは、ただちょっと知りたかったんです。
何を?と久美子。
弟は答えた。
あなたと僕と、まだ本当に生きていると言えるのかどうか。
結局のところかなり月並みな文句ではある。
しかし弟がそれを言ったときの口調ときたら。
久美子はすっかり舞い上がってしまった。
もう少しいられるでしょう、と彼女は言った。
伴奏してください。
彼女はもっと歌いたかった、私と一緒に、そしてきっと、私のために。
弟は言った。
ええ、いいですとも、でも。
でも何?と久美子。
弟は言った。
ちょっと電話してこなくちゃ。
弟と久美子、お似合いのカップル。
この私が言うのだからまちがいはない。
なにしろ私も妬ましくなったくらいだ。
二人がテーブルのあいだを通ってバーに向かうあいだ、なおも拍手が鳴り止まなかった。
バーではビルとスコットが二人を迎えた。
久美子は私らに弟を紹介した。
あなただとはわかりませんでしたよ、とビルが言った。
僕もです、とスコットが言った。
とんでもなく才能のあるしろうとなのかと思いました、しかも厚かましい、とビル。
僕もです、とスコット。
ポールは背を向けたまま相変わらず女の子をくどいていた。
大友さんはもう少し一緒にいてくださるそうよ、と久美子が言った。
私たちのデュオ、受けてたみたいじゃない。
ビルとスコットは顔を見合わせた。
久美子は私らとは決して一緒に歌おうとしなかったのだ。
お急ぎじゃないんでしょう、そうじゃないといいけれど、と久美子が言った。
いえ、と弟。
でもちょっと電話してこなければ。
電話ボックスは一階のディスコテークにあった。
クラブとディスコテークを結ぶ階段の両端はそれぞれ、クッション張りの扉で仕切られていた。
両方の音楽がぶつかり合うおそれはなかった。
どちらでも鳴っているのはクラブミュージックだったとはいえ。
下ではピアノトリオ。
上ではさまざまな編成。
ただしいつでもサキソフォン入り。
くたびれた女はフジワークのサキソフォン奏者が大好きだった。
それもとりわけ、テノールが。
弟がディスコテークに出たときにはソニー・ロリンズが演奏中、壁にかけられたレコードのジャケットが示すとおり、ヴィレッジヴァンガードでのトリオ演奏だった。
やっぱりこれがロリンズの最盛期だろうな、と弟は思ったが、とはいえ私が考えていたのはもっぱら、これからシュザンヌにかける電話のことだった。
バーに近づき、くたびれた女に指で電話ボックスを示してもらった。
あの男、だれかに似てるわねと女は考えた。
電話ボックスの扉もまた、クッション張りだった。
弟はその中に入った。
財布からテレフォンカードを取り出した。
小銭でしかかからない電話だった。
しかたがない。
両替してもらうためいったん出なければならなかった。
くたびれた女は私のてのひらにひとつかみの小銭を落とした。
大友に似てるわね、と彼女が言った。
そうですか、と弟は言った。
それ、だれなんです?電話ボックスに戻って中に入る。
投票用紙記入ボックスという感じ。
それとも告白の場。
検疫用の個室か。
はたまた別世界へ移動するための気密室だろうか。
ひょっとしたら枢かもしれない。
それはまあともかく。
扉が閉まると、弟はもはやそれまでの私ではなかった。
十年来そうだった人物に戻っていた。
時刻は11時30分。
乗るはずだった列車はパリに向かって走っている。
私は自宅の番号を回した。