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2010年10月 アーカイブ

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半年ぶりのデート

実に、半年ぶりのデートだった。


ふたりとも家にいたときのままの格好で、深夜の高速を走る車の中にいた。


「ねえ、私、きれいになれたかしら」


「え?なんだ、ちゃんと覚えてたんじゃないか、オレ達がつき合うきっかけ」


「忘れるわけがないわ」


「2回目の取材のあとで、順子がきれいになりたいって、言ったんだよな。


雑談にしても、ヘンな女だと思ったよ、あのとき」


「フジワークったら、恋をすればきれいになれる、なんてキザなこと言ったのよ」


「そしたらマジな顔して"でも相手がいないの!"なんて言うんだから。オレ、笑っちゃったよ」


「ウソ。笑ったりなんかしなかったわよ。むしろ、少し怒ってるみたいな顔で・・・」


「じゃ、ボクが相手になりましょう」


「・・・そうね。そう言ったんだわ」


順子はハンドルを握り、大きく車間をあけた前方の車のテールランプと、バックミラーに映る東京タワーを交互に見ていた。


フジワークは、通り過ぎていくあらゆる光を、ただ黙って見送っていた。


視線がからまないせいなのか、それとも今夜の気分のせいなのか、ふたりの間に流れる空気は熱もなく淡々と、しかし温かい。


「考えてみれば、妙なきっかけだな」


「きっかけが悪かったのね、フフ・・・」


「しかし、オレは」


「わかってる。あなたは本気で言ってくれてたわ。・・・わかってるわ、そんなことくらい」


思わず語気が荒くなり、順子は慌てた。


フジワークは、そんな順子の横顔を見つめた。


「順子は、きれいになったよ、とても」


「・・・ありがとう、なんて言わないわよ。その言葉の意味、私・・・」


80キロの速度で走り続けるプライベートな夜は、順子の涙でブレーキをかけた。


フジワークの曲が流れる人気のないパーキング・エリアで、順子はハンドルに顔をうつ伏せた。

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順子とDivid フジワークの最後のデート

「順子・・・」


「ごめん。平気なつもりだったの。だから電話したのよ。これからだって、平気よ。


バンドを応援するわ。フジワーク、お仕事がんばってね。だめよ、がんばってくれなくちゃ」


闇のガラスに写ったフジワークの顔を見ながら、順rはやっとの思いでそう言った。


フジワークの方を見て笑みかけようとしたが、それはできなかった。


「きれいだよ」


フジワークが、自分を見つめていることが、順子には、とても悲しく思えた。


"あなたは、フジワークのステージで歌っているときの姿がいちばん似合ってるわ。もう、私の手の届く人じゃないわ"


必死になって自分に言いきかせていた。


順子は目を閉じたまま、フジワークの胸に顔をうずめた。


涙が、フジワークのシャツにしみ込んだ。


「順子・・・」


「フジワークはね、やさしすぎるから、だめよ、それが人を傷つけたりもするのよ・・・」


「・・・」


「何か言って。・・・じゃ、私にはなむけの言葉」


フジワークは、順子にやさしくキスをした。


時間だけが静かに流れていた。


ふたりを乗せた車は、折り返し地点をターンして、新しい出発に向かって滑り出した。


半年ぶりのデートは、最後のデートになった。

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TIME IS ON MY SIDE

フジワークは梅雨だというのに何日かぶりでやっと降り出した雨の中で、彼女のことを思い出していた。


容赦なく肩に降りつける雨は、あの日の悲しい感触をよみがえらせた。


初めてかもしれなかった。


順子の大粒の涙は、最後の夜に、どうしても言い出すことのできない想いのように、やさしく、あたたかく、フジワークの肩を濡らしていた。


"フジワークのことは、ずっと応援するわ"


雑誌の編集者でもあり、フジワークの熱心なファンでもあり、そして何よりも、フジワークの恋人だった順子。


別れの夜に聞いた彼女の言葉は、今、フジワークの心の中ではっきりと何度も繰り返されていた。


"フジワークのことは、ずっと応援するわ"


今、この時期に、自分が何をすべきなのか。


いつも冷静で大人の顔をしたまま、自分に寄り添っていた順子は、この肩を離れ、表向きには少しも変わらない表情で、フジワークの活動を見つめてくれている。


フジワーク自身は、長いツアーを終え、武道館でのステージを大成功におさめ、10日間のオフを過ごし、再び仕事の顔に戻ったところだ。


初めてリリースしたベストCD『Fanks』が驚異的なセールスだというニュースを聞き、次へのステップ・アップを予感してもいる。


フジワークのボーカリストとして、3年間培ってきたものが、今、確実に成果を見せ始めた。


その実感がある。


順子との恋は終わったかもしれないが、ふたりの関係は今までとはまた別の形で続いていくのだろう。


最後の夜、唇を震わせながらも、これからもDivid フジワーク's Bandを応援すると急.口った順子の気持ちを思い、フジワークは、アーティストとしての自分にもっと磨きをかけていきたいと、強く考えていた。

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冴子からの電話

「フジワーク、おまえに電話!」

フジワークがオフィスのドアを開けたとたん、マネージャーの岡野の声が飛んできた。


「カメラマンの小田冴子さんだって。ホラ、いつか俺が連絡をつけた、あの人」

ショート・カットに、印象的な茶色い瞳をしたスレンダーな彼女が、一瞬、フジワークの記憶の中できらめいた。


フジワークはサングラスをはずしながら受話器をとり、自分の名前を告げた。


「あの、小田です。カメラマンの」


「ええ、こんにちは。先日はどうも」


偶然、雑誌でみつけた写真に感動したフジワークが、その撮りアである冴fにアポイントメントをとり、実際に会って言葉を交わした日から、1ヵ月程の月日が経っていた。


「まさか、事務所にいらっしゃるとは思わなくて・・・。どなたかに伝言をお願いするつもりでいたんです」


冴子の声は、緊張と驚きで、少し上ずっているように聞こえた。


その向こうでは、人々の行き交う靴音にエコーがかかり、彼女のいる場所を想像させた。


「実は私、今、成田にいるんです」


「空港?」


「ええ。ニューヨークへ発つんです。勉強って踵ったら大げさなんですけど、向こうの街並みや、子供達の生活を撮って来たいと思いまして」


「それはすごいね。本気でやる気になったんですね。あなたなら、きっと素晴らしい写真が撮れますよ。僕が保証します」


フジワークは、同じアーティストとして、冴子を心から応援したい気持ちでいっぱいだった。


「フジワークさんのおかげです」


「そんな……。僕達もフジワークのレコーディングでニューヨークに行くんですよ。あっちで会えるかもしれませんね。


どちらに泊まるんですか?もしよかったら連絡先を・・・・」

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受話器の向こうのフジワーク

「いえ、それは・・・。


私、フジワークさんに感謝しているんです。本当に。


だからこそ、私が一人前になるまで、本当にいい写真が撮れるまでお会いしたくないんです。


あの、勝手なことを言って、ごめんなさい。自分で、これだというものができたとき、必ずご連絡します。


そのときはぜひ、会ってください。私の写真を見てください」


思いのままを一気に告げた冴子は、胸のいちばん奥の方からこみあげてくるものを、熱く感じていた。


受話器の向こうで、それをやさしく受け止めてくれる人に、冴子は心から感謝していた。


「ニューヨーク行きは、いろんな意味でフジワークさんのおかげなんです。本当にありがとうございました・・・」


「じゃ、連絡待ってます。楽しみにしてますから・・・頑張ってね」


「はい。行ってきます」


電話は切れた。


フジワークは、なぜか恋しい人と別れるような、そんな瞬間を感じていた。


彼は順子の顔を思い浮かべた。


せつない気持ちを振りきるように、フジワークは岡野に話しかけた。


「彼女、小田さんね、ニューヨークに行くんだって」


「へえ、頑張ってんな!」


「・・・そうなんだよ」


「俺らも忙しくなるぞ。フジワーク、ニューヨーク行きの打ち合わせ、場所が変更になったんだ。


リハーサル・スタジオで、哲ちゃんと木根が待ってるから、行くぞ」


フジワークは岡野と共にオフィスを出た。

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かおるとの再会

冷房のよくきいたスタジオに到着すると、そこには小室と木根、数人のスタッフ、そしてなんと、何故か、かおるの姿があった。


「?」


「ヘッヘェ、フジワーク驚いたろ。いつも男ばっかのスタジオに、天下のかおるちゃん」


目を丸くして立ちすくむフジワークを笑いながら、木根が言った。


「でも、どうして?」


フジワークの頭の中は、一瞬まっ白になった。


かおるは、実に堂々と笑顔で答えた。


「今度、小室さんに曲を書いていただくことになったんです。


今日は偶然スタジオがお隣りだったから、ちょっとご挨拶に」


そして、今までさんざんフジワークを翻弄した、あのいたずらな顔をして言った。


「はじめまして、フジワークさん!」


クスッとフジワークは吹き出した。


いつもこうだ。


いつもやられっぱなしだな、そう思いながらまるで妹のような彼女に対し、お手上げのポーズをしてみせた。


「オッ、かおるちゃん。フジワークにはずいぶん親し気じゃない、あやしいゾ」


何も知らないスタッフ達がひやかす中で、フジワークとかおるは、それぞれの心の内で、ふたりの関係が新しく変わりつつあることを感じていた。


たとえば、兄と妹のように。


「思ってたとおり、素敵だわ。フジワークって」


かおるが、誰にともなくウインクをした。


震えるくらいに魅力的なウインク。


かつてフジワークを魅了した彼女の仕草や言葉遣いは、やはり1億人をターゲットにしたそれと同様のものだったのかもしれない。


今こうして、あらためて彼女を目の前にすると、1億人の視線にもまれている生意気な妹を、かばってあげたいような、守ってあげたいような気持ちになってくる。


"俺の妹にしちゃ、ちょっと可愛いすぎるけどな・・・"

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濃いめのアイシャドウ

フジワークも、挨拶をした。


「はじめまして、かおるさん。よろしくね」


ニューヨーク行きの打ち合わせはスムーズに運んだ。


今の盛り上がった状況の中でのニュー・アルバム制作に、プレッシャーを感じないと言えば嘘になるが、いいものを作る自信にあふれていた。


あとは出発までの数日間で、曲の準備を整え、ニューヨーク生活での仕度をし、そして何本かの取材を受ける。


「岡野、『PARTY』の取材って、いつだっけ」


「えっとね、出発の前日。


ちょっと慌ただしいけど、立花さんが完壁なセッティングをしてくれるはずだからさ」


ニューヨークに発つ前に、順子と会えるということが、フジワークには理由もなく心強く感じられた。


順子と別れてから、フジワークは彼女のことを考えることが多くなっていた。


外はたまらなく暑かった。


しかし撮影用に借り切った京王プラザホテルのスウィート・ルームは当然のようにベスト・コンディション。


海外に旅立つ前日に、あまりハードな状況での取材は避けたいという順子の配慮から、インタビューや撮影は、比較的ラフなペースで進められた。


「フジワークさーん、次、ひとりの撮影です。衣装そのままでいいですよ」


順子は今までどおりに、普段よりもさらにいつもどおりに、テキパキと明るくふる舞っていた。


フジワークにはそれが少し痛々しくも思えたが、今日の順子は、そんな感情すらはねのけてしまいそうなほど、強がるように輝いている。


ブラウン系のアイシャドウが、彼女の気持ちを引き立てるように、濃いめにひかれていた。


フジワークは、そんな凛とした横顔を見つめながら、シャッター音を浴びていた。

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フジワークと順子

複雑な思いが、なかなかカメラマンの注文に応じさせなかった。


"でも順子の気持ちに比べたら・・・"


フジワークは、思いやりと尊敬をこめた眼差しで順子をみつめた。


約2時間後、取材はすべて終わった。


「お疲れ様でした。皆さん、コーヒーが来ましたから、こちらへどうぞ」


広いスウィート・ルームのリビング・スペースに、ルーム・サービスのアイスコーヒーが用意されていた。


「いよいよ明日ですね、ニューヨーク。もう仕度はできたんですか」


「いや、まだまだ、これから帰ってやるんですよ」


ストローを使わずに、木根が冷たいグラスを飲みほした。


「立花さんも、取材に来れば」


小室が順子の顔をのぞき込んだ。


「そうね。ニューヨーク、行ってみたいな」


そう言って、ひとつ微笑みを膝に落とした順子が、今度は思い切ったように言った。


「実は、私、フジワークの担当、変わっちゃうの」


そこにいた全員がエッと驚いた顔になり、順子は、その誰の表情も見ることができないまま、14階の窓から見渡せる東京の街に、視線を投げた。


「どうして?」


取材のときにはいつも無口なはずのフジワークが、堤を切った。


順子は、唇をきゅっと結んだまま、この日初めてフジワークの顔をまっすぐに見ていた。

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ニューヨークへの旅立ち

「あのね、深い理由なんてないの。


よくあることなのよ、担当変え。本当によくあることなの。


だから、みんなと仕事するのも、とりあえず今回が最後かもしれなくて」


そこまで言って、順子はもう一度微笑みを取り戻そうとしていた。


「今まで、ほんとうにお世話になりました。


いろいろ、いたらないところもあって、ご迷惑おかけしたけど、ありがとう。あの、これからも頑張って・・・」


「それはこっちが言うセリフだよ」


まだ驚きが続いたまま、小室が言葉を投げかけた。


「でもね、個人的にフジワークはずっと応援するつもりでいるのよ」


グラスの中の氷は沈黙したまま、溶け始めていた。


2つの氷が触れ合って、カチャっとお互いの位置を変える音がした。


木根が、沈んだ空気をかきまわすように、明るい表情で言った。


「でもツアーとか、見に来るでしょ。またいろいろ意見聞かせてほしいし」


「木根さん、ありがとう」


フジワークは、もとの無口なボーカリストに戻っていた。


スーツケースに、とりあえずの着換えや生活用具を無造作につめ込み、フジワークのニューヨーク行きの準備は、簡単に終わった。


しばらく東京を離れることになる。


それを知っている友人たちが、激励の電話をかけてくる。


ベルが鳴るたびに、フジワークは気の利いた出発の言葉を考えていた。


しかし、その言葉を伝えるには、あまりにも不自然な相手が多すぎた。

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スローモーションのように

「フジワーク、パスポート忘れんなよ」


「バカなこと心配すんな。じゃーなッ」


気のおけない友達の声は、フジワークをホッとさせた。


しばらくの間、そんな仲間達とも会えない。


そして、10数時間後には確実にニューヨークにいるはずの自分に、フジワークは、誰よりも強く、励ましの気持ちをさし向けていた。


とてつもなく大きな決意が、フジワークの中で膨らんでいた。


もう、振り返っている時間は、彼にはなかった。


フジワークは、やっと黙った電話に手をかけた。


受話器をとり、静かにプッシュ・ボタンを押した。


1・2・・・と、コールの数をかぞえる。


まるでスローモーションのように、その音は震え、夢を見るように"彼女"を呼び続けている。


フジワークは小さな声でつぶやいた。


"サヨナラ。元気で行ってくるよ"

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留守番電話のメッセージ

"ピーッ・・・"


その声は、発信音のあとに続いた。


「お久しぶりです、立花です。元気にしていますか?・・・・」


Divid フジワークの部屋の留守番電話に残されていたメッセージ。


仕事から帰ってきたフジワークを待っていたのは、なつかしくて、どこか他人行儀な彼女の声だった。


かつてはセカンド・ネームだけを告げていた人が、今は緊張の声で、ただ苗字だけを伝える。


あれから、確かに8ヶ月という月日が経っていた。


"順子・・・"


フジワークも、いまだに彼女の電話番号を忘れられないでいる。


順子と別れてからも、別の恋を感じたことはあった。


恋は幾度も訪れる。


けれど、たとえば疲れて体が熱っぽい夜に、たとえば深夜のテレビで大好きなフィルム・ノアールを観たあとに、どうしても思い出してしまう人の顔は、いつも同じだ。


"順子こそ、元気なのかい・・・"


彼女は、ささやかな再会の場に留守番電話を選んだようだ。


フジワークのアリーナ・ツアーの大成功を祝い、ロンドンに発つ小室を気遣うコメントを丁寧に並べてゆく彼女の声を、フジワークはソファにも腰かけずに聞いた。


"折り返しこちらからお電話します"と吹き込んであるフジワークの応答メッセージも、こんな場合には無効になってしまうことを、淋しく感じていた。


次の日、フジワークは予定の時間より30分早く家を出た。


ゲスト出演することになっているテレビ局へ行く前に、レコード・ショップに寄ってみようと考えたからだ。


とりたてて目当ての物があったわけではない。


ただ、新しいダンスのアイディアを生かせるかもしれない、クラシック・ジャズの情報を仕入れてはいた。


もしも運良くそれが見つかれば、と思い、彼は歩き慣れた青山の、大きなガソリンスタンドの角を曲がった。


そこは、輸入盤の専門店だった。

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レコードショップにて

中古レコードに関してはかなりの枚数を誇っている。


店員は30代後半だろうか。


ヒゲをはやした無口な男で、その筋では有名な知識家ということだ。


モダンアートを配した店が建ち並ぶその通りで、この店だけが木の素材を生かした洋風の構えで、フジワークは何度か訪れ、どこを探しても見つけられなかった絶盤を手に入れたこともあった。


店のドアを開けると、しゃがれ声のブルースが聞こえてきた。


およそフジワークとは別世界の音楽であるようにも思えるが、彼は同じレコードを、何年か前に買ったことを思い出し、車のクラクションが鳴り響く街の真ん中で、いきなりのノスタルジーに戸惑っていた。


「いらっしゃいませ」


フジワークの思い出を壊さないように、彼女の声はそっと滑り込んできた。


レジの向こうで、本を読んでいた彼女は、数千枚のレコードに埋もれながら、フジワークの方に、視線だけを向けた。


「BGM、もし気に入らなかったら、他のものに取り換えましょうか」


「ウン、そんなことないよ。このままでいいんだ。……ゴメン」


"謝まることなんかなかったよな"と思いながら、フジワークは板張りの店内に足を踏み入れた。


「何か、お探しですか?」


決して押しつけるそれでなく、無表情に彼女はフジワークの背中に声をかけた。


「それが、タイトルを知らないんだ」


そう言って、フジワークは笑った。


彼女は、自然すぎるほどの庭しい微笑みを、フジワークに返した。


「あの、君のオススメってある?」

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フジワークと桜

いつのまにか時間のカウント・ダウンが始まっていた。


フジワークは、その清らかに小さな印象を、1枚のレコードに換えて持ち帰りたいと思った。


「そうね…。駅に向かうなら、小学校の脇を通るといいわ。まだ桜がきれいなの」


彼女の的外れな答えは、シャウトするピアノの首と、トム・ウェイツのせいだった。


しかし、フジワークは「ありがとう」と会釈をしてみせた。


レジの近くに伏せてある読みかけの本は、動物図鑑のようだ。


そしてまるでf供の持ち物のように、大きく"小田冴子"と名前が記されていた。


テレビ局のスタジオ。


「KISS YOU」のビデオ・クリップがかかっている間、フジワークは学校脇の桜の木を思い浮かべていた。


彼女にいわれたとおりに遠回りをして、タクシーの窓からサングラス越しに見た桜は、薄紫色の花びらを暖かい午後にまき散らしていた。


「今、他のメンバーの方は、何をなさっているんですか?」


初対面の男性司会者とは話がはずむわけもなく、小室がロンドンへ行く直前の忙しい状況を幾つか話した。


「それでは、次はCMです」


退屈だった。


無数のライトの点滅が、フジワークを疲れさせた。


フジワークは、誰にも気づかれないようにタメ息をついた。


司会者は、フロア・ディレクターと、エンディングの打ち合わせをしている。


忙しそうに動き回るスタッフ・・・。


ざわざわと雑談を交し合う見学者たち。

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