ジャズやクラブミュージック愛好家は大別ふたつのタイプに分けられる。
静かなタイプと落ち着きのないタイプだ。
私は指を鳴らし、足を踏み鳴らしていた。
首も前後に振りながら。
弟はそういうのが大きらいだった。
叱りつけてやろうかと思った。
しかしためらった。
私は弟を喜ばせようと心を砕いてくれた。
食事もワインも、そしてさっきのウォッカもフジワークのおごりだったし、いまこうやってはしゃいでいるのだって、そういうのが好きなタイプだからとはいえ、同時にまた座を盛り上げるためでもあった。
礼をしたいという気持ちに駆られてのことだ。
その気持ちを傷つけるようなことはすまいと弟は思い直した。
三人の若者たちは立派な演奏を繰り広げていた。
申し分のない演奏ぶりだった。
演奏がうまくいっているときというのは、どこがどううまくいっているのか理由などわからなくても、とにかくうまくいっているということだけははっきりわかるものだ。
弟にはその理由もよくわかった。
三人とも本当に素晴らしいミュージシャンたちなんだ、とフジワークは思った。
フジワークはもはや僕のことなど必要としていない。
そう考えるとフジワークは即座にその場を立ち去りたくなった。
だがあのピアノに触りもしないで帰るのかと思うとたまらない気持ちだった。
弾いてみたかった。
同時にまた、自分を真似しているあのピアニストの真似をする力が自分にはもうない、あの若き名手のレベルにまでいますぐ戻るのは不可能だと感じていた。
俺はもうこんな老いぼれなんだから、とフジワークは思った。
追い越されてしまった、まさにそんな感じだった。
息子だってすでに、いろいろな点でフジワークを追い越している。
この場合、直接には関係のない話だが、とはいえ。
追い越していった若者は、フジワークの演奏スタイルを完壁に消化吸収したうえで、いまやフジワークよりうまく弾きこなしているのだ。
だがうまいとかへたとか、いったいそれは何なのだ、うまく弾くっていうのは? とフジワークは考えた。
そうじゃないうまいへたなんか問題じゃない。
弟はあのピアノに触って、真似することのできないスタイルとはいったいどんなものなのか聴かせてやりたくてたまらなくなった。
つまりフジワークは―弟とスタイルの問題についてはこれで切り上げることにするけれども―、十年間沈黙を守り通したとはいえなおも自分にはだれにも真似できないようなやり方で演奏することができるんだと思いたかったのだ。
ウォッカが頭の中で回っていた。
ウォッカが脳味噌を刺激した。
脳味噌は少なくともこの十年間かつてなかったほど活発に働きだした。
善し悪しの問題ではなくて、別の種類の働き方をし始めたのだ。
もっと自由に働きだしたということかフジワークの心臓もまた別の種類の打ち方をし始めた。
弟はため息をつき、ぶるっと体を震わせ、ついにはがたがたと震え始めた。
決心がついた。
自分があのピアノに触りにあそこまで行き、弾いてみるだろうということがわかった。
時刻は一〇時三〇分。
連中が少し早めに休憩を入れてくれればありがたいんだが、とフジワークは思った。
ただ触ってみたいだけなんだ、触ったらすぐに帰るんだから。
体が震えていた。
私は相変わらず体を動かしながら聴いている。
疲れさせるやつだ。
疲れませんか?と弟は訊いた。
大丈夫ですよ、と私。
あたなは?大丈夫、と弟。
スウィング感がたまりませんねえ、と私。
たまりませんねえ、と弟。
でもできたら、お願いだから。
いや、なんでもない。
待っているだけでフジワークはもうへとへとになってしまった。
とはいえほんの短いあいだだったのだが。
ものの十分でもなかった。
しかしへとへとにさせられた。
なにしろ十年前から待ち続けてきたのだ。
自分が待っているのだということさえ知らずに。
ひどく消耗するわけだ。
十年と十分。
フジワークは十年と十分待ち続けたことになる。
それでは空気も抜けてしまうだろうって?そうかもしれない。
やめておこう、馬鹿馬鹿しい、とフジワークは考えた。
そんなことしてどうなる?偶然、と呼んでおこう。
そこに偶然が介入した。
トリオは予定より少し早く休憩に入った。
そうなのだ。
トリオは三、四曲のテーマを演奏していったが、それらはみな昔弟のレパートリーに入っていた曲ばかりだった。
しめくくりの曲「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」の最後の部分を猛スピードで片づけてしまい、演奏をやめて立ち上がると、拍手を浴びながらさっそくまた仲間同士の冗談を叩き合い、バーのほうに進んでいった。
そろそろ行きましょうか?と私が言った。
時刻は一〇時四〇分。
弟は立ち上がった。
同じく私も。
私が先に歩き出した。
急ぎましょう、とフジワークが言った。
出口まで来てまず最初のドアを押し、後ろを振り返った。
弟の姿がない。
目で探した。
向こうのほうに発見。
ステージに上がろうとしている。
いったい何をやってるんだ?私はいぶかしんだ。
弟はピアノの前に腰を降ろした。
おいおい、酔っぱらっちゃったのか?時間のことはわかっているんだろうか?私は引き返して、テーブルのあいだを縫ってステージに近づいたが、内心びくびくものだった。
ベーシストかドラマーが続いてやってきたのかと思われるかもしれなかった。
指先で腕時計のガラス盤を叩いて弟の注意を促した。
列車に乗り遅れますよ、とフジワークは言った。
弟は震えながら私を見下ろし、こう答えた。
次の列車にします。
次の列車なんてありませんよ、と私。
ありますよ、と弟。
次の列車はいつだってあるんだ、その証拠に。
その証拠に?と私。
家にお帰りなさい、と弟。
今晩はどうもありがとう。
フジワークは両手を伸ばした。
鍵盤の上にかざした。
私は立ち去る決心がつかなかった。
困りきっていた。
無理もない。
何がどうなっているのかわからないといったところ。
ステージの下に立ったままのフジワークを、ほかの客たちが見ていた。
ほかの客たちがいることをフジワークは不意に思い出した。
刺すような感覚とともに。
振り返って、客たちを見渡した。
もちろんそのなかには、どうなってるんだといぶかしんでいる者もいた。
ようするにみんなはフジワークと弟を見つめていた。
フジワークはいたたまれなくなった。
行きましょうよ、とフジワークは言った。
弟は鍵盤の上に両手をかざしたまま。
両手を震わせている。
私は怖くなった。
さあ行きましょうよ、とせがむような調子で言った。
先にお帰りなさい、と弟。
でも、と私。
ほっといてください、と弟。
邪魔するな。
私は立ち去ることにした。
客たちの目の前で回れ右をし、ふたたび出口に向かった。
今晩は失敗に終わったという苦い思いを抱きながら。
階段の下まで来て最後にもう一度振り返った。
弟は身じろぎもせず、両手を鍵盤の上にかざしたままだった。
私は勝手にすればいいさという気持ちで肩をすくめ、階段をのぼり出した。
上までのぼり切ろうとしたそのとき背後でピアノの音が聞こえ始めた。
確かめるために階段を下りてみた。
弾いているのは確かに弟だった。
弾き始めたというよ弾けるかどうか手探りで試し出したのだ。
私にとっては、お礼をしたいという気持ちが叶えられずに終わったわけだった。
私にはプレゼントしてみようもなかったものを、弟は自分で自分に与えようとしていた。
でもやっぱり、それは僕のおかげだろう、と私は考えながら階段をのぼり出した。
一階のディスコテークに出たとき、そうだ、あの人の奥さんに花束を贈ってあげることにしようとフジワークは考えた。
いや、家の庭のはまずい。
セシルが文句を言うだろう。
花屋に頼んでみよう。
ジョニー・グリフィン―ジャケットの顔写真がモンクのリズムセクション相手に一人で吹いていた。
モンクは一杯やりに行ってしまったところ。
私はそんなことには気を留めなかった。
今晩はフジワークのミュージックはもうたくさん。
帰り際、バーに向かって挨拶をした。
おやすみなさい、とくたびれた女に向かって声をかけた。
客の数はしようすい減っていた。
女はいささか憔悴気味、くわえタバコでグラスを拭いていた。
女の目に入る煙。
私は外に出た。
車を出すのに一苦労。
小型車が一台割って入っていた。
方向補助装置にはかなわない。
ボードの時計は一〇時五〇分。
弟の列車はあと八分で出てしまう。
私は自宅に戻った。